一、くらしの中の方言(6) うそこぐ「うそ」をつくことを、「うそこく」ともいいます。「うそつき」「うそこき」などともいいます。「うそつき」の≪つき≫も、「うそこく」の≪こく≫もこれは古語です。この古語を横手地方では、標準語の発音から少しズレて、「うそ≪こぐ≫」「うそ≪つぎ≫」のように語尾を濁音化します。この語尾の濁音化は法則的です。 この国で、この「うそコク」「うそツキ」などがつかわれた昔、「コク」「ツキ」にはそれ相当の意味と、感情的な意味とが、明確にそなわっていたのでしたが、当世、自分に「うそついで」まで、力あるもの、金力・権力あるものに身をすりよせて、ほんとうの自分を見失っているかのような風潮をみるとなんとも哀れになります。 この「うそコグ」「うそツギ」を、もうちょっと自分に引き寄せて、すこし探ってみたいものです。
また、『同書』の語法編/「詞の組立」の項に
ここでは、「こぐ」「たげる」「まげる」のそのどれもが(するの意を表す)と規定されています。
「こく」に、(放)の漢字をあてて[放く(こく)]としています。ただ、「こぐ」となるのは音変化による転訛のひとつですから、方言ということになるでしょう。同類の「うそこき」「うそつき」など、終わりの音節がきまって濁音化して、それぞれ、「うそコギ」「うそツギ」になるなど法則的です。古語辞典の用例にみられる芭蕉の句「馬のばりこく」については、あとで触れることにして、まずはさきを急ぐことにします。 「うそ・つき」については、『広辞苑』では次のようです。
「うそつき」の「つき」には、「吐」の漢字をあてています。比喩的な、「泥を吐かせる」「泥を吐く」などの意味から、「吐」の漢字をあてたものでしょうか。天下の『広辞苑』はそのことを語ってはくれていません。この「うそつき」の場合も、「うそツギ」のように音変化したものは方言といえましょう。 この「コグ」「コギ」の用例を豊富に例示してくれているのが『秋田方言辞典』です。その中から、身近な例を拾ってみたのが次の表です。
左側は「コグ」の用例。右側は「…する人」を指す「コギ」の用例。「…コギ」に結び付いた語を漢字表記にしてあるのも『同書』から、お借りしたものです。何を「…する」というのか、その語源的な意味までわかります。 考察のふかい辞典といえます。 「うそこく」「うそつき」と同類のことばに、「うそ・まける」があります。音変化した「うそ・マゲル」も方言です。この「うそまける」についても『秋田方言辞典』は明解です。
マケルのもともとの意味から、「いやなもの、汚いものを投げ出す意味と結びつき」「排泄する」さらに、「言う、する…の卑語」となったわけが明解にあとづけられています。考察の的確さに脱帽です。 さきの『古語辞典』(旺文社刊)での「こく」の(2)−ものを言うのに卑しんでいう語、の解説と、この「秋田方言辞典』の「まける」での−(3)「…する」の卑語、との考察は、まったく同じ指摘といえるもので、「蔑視または卑下すべきものに対する感情」的な意味といえるものです。「コグ」「ツグ」「マゲル」などの語が本来もっていた「感情的な意味」を抹殺、意に介せずの風潮のはびこるかのような当世のことば事情は嘆かわしいといえましょう。 当世ことば事情はこのくらいにして、さきを急ぎます。
右段の△印−「あさねマゲル」「せやみマゲル」「だじゃぐマゲル」のかたちはあまり使われないように思うのですが、どうでしょうか。 「…コイデ」は、「…こく」のもうひとつつの形、「…こきて」からきたコキテ→(コギデ)→コイデの方言となったものでしょう。こうした音変化はほかの例にもみられます。たいてい、文語体から口語体への変化をとるときに、「書きて、」→カイテ、「退きて、」→ドイテ、「飲みて、」→ノンデ、「食ひ(い)て、」→クイテ→クッテ などのように音変化をとります。 「…イテ」「…ンデ」「…ッテ」のような音変化を「音便」といいます。 「うそツキテ」にも音便がみられます。「うそツイテ」がそれです。おもしろい例があります。 「うそツケ」「うそコケ」は「ツク」「コク」の命令形です。ふつう、会話のなかでつかわれ、「うそツケ! おまえ、また、うそついたな」、「うそコケ! うそついたのはおまえだろうが」などの例があります。会話のなかに多いようです。方言では、当然の音変化をとります。命令形のかたちをとりながら、相手側を詰問したり、また、疑義を正すといった意味でつかわれる表現豊かな語のひとつといえましょう。 ここらで、散歩も、ちょっと一服。 ところで、『古語辞典』の「こく」の用例に芭蕉の、「蚤虱馬の尿(ばり)こくまくらもと」の句が引用されていたことは、さきにもみてきたところです。 「尿(ばり)」は動物の小便、「尿(しと)」は人間のそれ、主として子どもの小便を指すとされています。「尿(ばり)こく」は「蚤・虱」とあいまって、卑俗そのままの感じが強烈にうたわれています。ところが、『奥のほそ道』(元禄二年)では、「尿(しと)する」と改められています。推敲を重ねたうえでの「尿する」であったことがわかるのですが、「尿(ばり)こく」の卑俗のおもしろさをもとにもどしたとのみの単純さではなく、「こく」のもつ「感情的な意味」としての卑下そのことを捨てたのだといえます。「尿こく」は、馬の尿(ばり)への卑下の感情のはたらく語なのですから、馬という生き物を見下した把握があるのに対し、「尿する」には、人間芭焦の生き物との対等のまなざしのあることをみてとれます。 芭蕉のその発見は、理知としてではなしに、そこに置かれた一人間としての「おかしみ」として感受しえたからこその表現とみなくてはならないでしょう。つけくわえて、この句は、『奥のほそ道』での「…鳴子の湯より尿前(しとまえ)の関にかかりて、出羽の国に越えんとす。…」につづくもので、「尿前(しとまえ)」の地名への挨拶としての「尿(しと)する」であったのかも知れません。 この散歩道、まさか芭蕉に会うなどとは思ってもみませんでしたが……。 |
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