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五、平鹿方言考(細谷則理著)を歩く

(1) はじめに (『平鹿方言考』)の時代的な位置について

細谷則理のプロフィール明治44年(1911)ごろに作成(推定)とされる『横手町郷土誌』の≪第十二章 風俗習慣 /第六節 方言訛語≫の項に、[細谷則理の撰せる、平鹿方言考といふあれば、左記にその要を抄録す。]と書き出されて、二十ページにわたる、『平鹿方言考』が記されています。

『横手町郷土誌」が明治44年ころ作成(推定)とされますから、この『平鹿方言考』は、その数年前のものということになります。著者の細谷則理先生(このあと敬称略)が当時の横手中学校の国語教論でしたから、その研究実績が、『横手町郷土誌』に抄録ということになったものでしょう。

ほかの各町村郷土誌にも「方言訛語」についての項はあるにはあるとしても、その地域の主な方言を、ただ羅列的に並べてみせるといったとりあげ方をしているだけです。どの町村も、そうするしか手立てをもたなかったというのが実情であったようです。

明治末年代の、「方言」への考察をまったく欠くなかに、『平鹿方言考』は『横手町郷土誌』のなかに、これが方言の姿、方言とはこういう歴史を背負って生きてきたのだ、ということを、学問体系のなかにみごとに示したものということができるといえます。

横手の町部(旧市内)でつかわれる方言と、平鹿郡部でつかわれる方言とにはわずかな違いがみられるでしょうが、全体的にみて大きな違いはないといえます。秋田方言であり、県南の方言であるといえましょう。ですから、『平鹿方言考』は、『秋田方言考』であり、『県南方言考』ともいえるものです。

やがて、昭和四年(1929)になって、県学務課編『秋田方言』が三年がかりで刊行されることになるのですが、細谷則理はその編纂委員として、語法部門の任命を受けます。ですから、明治末年代、方言についての学問的な目で考察されることなどなかった時代に、県南における細谷則理の方言研究の実績のたかかったことが、そうした経緯のなかにうき出ているといえます。

これが、『平鹿方言考』のもつ時代的な位置といえましょう。

まず、『平鹿方言考』の内容を概観すると次のようです。

第一章 音韻

第二章 名詞第三章 動詞第四章 形容詞
第五章 助動詞第六章 助詞第七章 感嘆詞
第八章 副詞第九章 接続詞第十章 接続語・接尾語

第十一章 文章

大きく分けて三っつです。ひとつは、方言の音声的なかたち、ふたつは、方言の文法的なかたち、三っつは、その文章的なかたちといえます。 文章的なかたちというのは、わかりやすくいえば、しゃべあうときの (実際に話すときの)方言のかたちといってもいいでしょう。

細谷則理のこれほどまでの体系的な研究実績は、みな独学によるものだったとされるのですから、これまた、大きな驚きと言わなくてはなりません。この『平鹿方言考』での、とりあげられた方言の広さ、内容の的確さ、考察のふかさなどには舌をまきます。則理が専門とした語法分野、その文法的なかたちへの考察は学問としての明晰な力が明確にはたらいているといえます。

たとえば、いくつか事例をあげてみると次のようです。

* <第一章> 音韻  二、〔い]の項での考察。

「ア韻の下なる“い”」
稀には、あえ(藍)、やえ(八重)、さいわい(幸)、くわえ(慈姑)等の如く、エと発音するあれど、多くは ai をエイヤの如く発音す。

今此の音を表すべき適当なる仮名を思ひ得ざれば、仮名にては エャ、ケャ、ゲャ、セァ、ゼァ、テャ、デャ、ネャ、へャ、メャ、レャ等を用ゐ、則ち羅馬字(ローマ字) にては ye を用ゐて之を表す。

貝 kai … kye (カイ … ケャ)
灰 hai … hye (ハイ … ヘャ)
無い nai … nye (ナイ … ネャ)
            (一部 …略…)

明治末年代での「貝(ケァ)」「灰(へァ)」「無い(ネァ)」の考察です。「東北方言のもうひとつの母音」とされる「æ エァ」につ いてなのですが、「æ」の国際発音記号というむずかしい引用を避けられて、ローマ字での表記をとるなどの配慮、苦心のほどがみられます。 用例の例示もわかりやすい。

* <第二章> 名詞 での考察。

<第二節 代名詞>
三、おめゃはお前の転訛ならんか、少し目上の人より後輩までに用ゐる。やぁは親しき同輩より下輩までに用ゐる。之はヤァと呼びかくる詞より転じたるものならんか。きさま、んがは共に下輩に用ゐる。

按ずるに んが は古語の いが の い が、ウガに転じ、其の ウガの更に転じて んが となれるものなるべし。梅、馬、生る、を常に ンメ、ンマ、ンマル といふが如く平鹿地方にてはウをンといふこと多し。

とあって、「んが」についての考察がつづくのですが、これが『古事記』[神武天皇の条]の≪伊賀(いが)≫をもとにするとされるし、またさらに、『日本書記』[皇極天皇の巻]の≪儞(お前)≫にまでさかのぼっての考究となるのです(くわしくは〔『平鹿方言考』を読む・・・(第二章)名詞〕を参照)。

方言「んが」は相手を罵っていう語なのですが、そのもとの語のかたちを古語にもとめるという学問的な姿勢には、おどろかされるばかりです。

* <第五章> 助動詞 での考察。

<第四節 指定>
「なり」
なりは多く ダ といふて柔な物、愚な人、などの如く、ナといふこと稀なり。なりをダといふは、ナもダも同じく舌頭音なれば、ナのダに転じ、リの略したるものなるべし。

「勉強することならば」「運動することならば」の「ことならば」をゴタラ、或いはゴッタラといふ。
明日だば行ぐ(明日ナラバ行カン)
休むごたら(休むコトナラバ)休め
達者だ(ナル)人ダ(ナリ)

「なり」が、方言では「ダ」となることの音声的な考察のひとつ。

「な」も、また、「だ」も「同じ舌頭音なれば…」と、息を鼻にぬいてつくる舌先の鼻音(n)から、同じ舌先でつくられるはれつ音(d)への音変化のカギを考察。音声学の縦横な駆使そのもの。

ここでは、わずかに触れた程度なのですが、このあとの第三章では、もう少していねいに歩いてみる予定です。

ここで、もう一つ、どうしてもつけ加えておきたいことがあります。それは、明治につづく大正・昭和(初年代)での、方言研究についてみられる姿勢についてです。

たとえば、県学務課が刊行した『秋田方言』(昭和四年刊)の県知事の「序」には次のように方言についての考えが述べられています。

「…然るに本縣の如きは北東北の僻陬に存りて標準的国語の普及遅々として進まず方言訛語の残存するもの鮮しとせず之を矯正せざることは文化発展上必須の業と謂ひつべし…」

つまり、秋田県は東北の僻地であり、標準語の普及が遅々として進まないのは、方言が残存され、そのなかで暮らしているのだから、その方言の矯正をはかるのが大事!といってるわけです。この根底には、方言は悪い、だから直されなくてはならない、という考えなのです。よく言われる「方言蔑視」でした。だから、小学校などでは、方言撲滅運動などといって、方言をつかった子は色のついたカードを持たされたり、また廊下にたたされるなどの罰則にくるしめられたといいます。

この『秋田方言』の研究編纂に、細谷則理もたずさわったのですが、則理は「方言蔑視」観にはくみせず、あくまでも方言の語法的(語学的な)立場に立つことで、方言そのものを地域のことばとして、あたたかく大事にし、客観的なまなこで考究されていることです。

「んが」の例でもみたように、罵語を悪い語としてみるのではなく、そのもともとのかたちを古語に見据えるなど、科学的な研究姿勢を一貫して貫いていることです。

これは、『平鹿方言考』での例ですが、『秋田方言』でも「方言蔑視」のひとかけらも述べてはいません。県学務課のおもわくはそれとして、実際に方言研究編纂の実務にたずさわった人たちのとうぜんの識見に裏打ちされていたかも知れません。『秋田方言』をみるかぎり、実務・編集のなかに「方言蔑視」観は見当たりません。

『平鹿方言考』は、『秋田方言』よりも早い論稿ですから、県内でもその研究実績の広さ、深さを誇れるものだったに違いありません。


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