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五、平鹿方言考(細谷則理著)を歩く

(3-2) 平鹿方言考を読む
  <第二章> 名詞


 
<第一節> 本名詞

一、名詞にはとり立てて言うこともなけれど唯一つあり。それは、鄭重に言はんとする時には[坊コ、火鉢コさ(にノ意)火コいれて火著コ添へてもて来え]の如く、名詞の下にコを添へること是なり。

十四、五年以来男子はこのコを添ふること大に減じたれども、女は今尚之を添ふるもの多し。
(*注⑥)  

<第二節> 代名詞

人代名詞

(自称)(対称)(他称)(不定称)
 お れ お えゃつ  だ れ
 お ら  やあ  けゃつ だ
 きさま
 んが

一、普通語と同じきは省きつ。以下皆然り。

二、おらは我の意にも、我等の意にも、単復の両方に亘りて用ゐらる。

三、おめゃはお前の転訛ならんか、少し目上の人より後輩までに用ゐる。やあは親しき同輩より下輩までに用ゐる。之はヤアと呼びかくる詞より転じたるものならんか。きさま、んがは共に下輩に用ゐる。

按ずるにんがは古語のいがのいがウガに転じ、其のウガの更に転じてんがとなれるものなるべし。梅、馬、生る、を常にンメ、ンマ、ンマル、といふが如く平鹿地方にてはウをンといふこと多し。

いがは、古事記、神武天皇の条に、召兄宇迦斯罵詈云伊賀所作仕奉大殿内意禮先入明白其將仕奉之状 云々。また、日本書紀、皇極天皇の巻に、蘇我大臣蝦夷聞山背大兄王等總、被上レ入鹿而嗔罵曰噫入鹿極甚愚痴專行暴悪儞之身命不亦殆乎、と見えたり。
(*注⑦)  

四、えゃつは、アヤツ(彼奴)の転、けゃつはカヤツ(此奴)の転なるべし。

五、誰デアルの意にだだといふことあり。之はたれの濁りてダレとなりたるがレの省けりまたデアルのデア約(つづま)りてダとなり、而してルの略したるものなるべし。誰がをダガといふことなければダは決してそのだの濁りたるものにあらざるべし。
(*注⑧)  

指定代名詞

(近称)(中称)(遠称)(不定称)
地位  〇  〇  あこ  〇

一、事物方向の代名詞は、さして普通と異なるはなく、地位の代名詞も近称、中称、及び不定称にも異なることなし。

二、カコは彼処の略なるべし。此の詞はドコモカコモ(何処も彼処も)の如く、他の詞と並べいふ時ならでは用ゐる事なきが如し。
(*注⑨)  


*注⑥<第二章 名詞> の <第一節 本名詞> では、「名詞の下にコを添えること…」と明解です。方言の名詞での大きな特徴のひとつをまっさきに述べています。ここでは、「鄭重(ていねい・だいじにする)に言はんとする時には」と、用例「坊コ、火鉢コさ、火コ入れて…」を示しています。

細谷則理の『平鹿方言考』でのこの考察をもとにして、『秋田方言』はさらに考察・研究をねりあげ、その「方言の語法的な考察」での <名詞> のところでは三っつの考察にまとめられています。

名詞の下に接尾語をつけること。
小少または親愛の意味を持つもの。
 「うしろの小山コさ、ホナコおるに」
他を蔑ろにする意味を持つもの。
 「はだぎ(畑)コの一町歩コばりもてだて なだけな」
親愛から転じて謙遜の意味をもつもの。
 「ちょと相談コに来たんンし」

『平鹿方言考』での考察が土台となっていることがわかります。細谷則理がひとつの点にまとめられたのは、学術書ではないからという配慮があったからかも知れません。

少し脱線しますが、「…コ」について、天下の『広辞苑』などでは、たとえば、「④特に意味なく種々の語につく。東北地方の方言に多い」として、「牛(べこ)この子っこ」「茶わんこ」などの用例をあげるのですが、まったく不快です。「特に意味なく」「東北方言に多い」とまでの迷?解説は、学問的にも許されるものではないでしょう。意味を持つからこその「…コ」の文法的なかたちがあるのであって、そのひとつを「鄭重さ」と考察しておられるのが細谷則理です。

ねりあげられた『秋田方言』での考察など、学問的な明確さ、ふかさなど天下に誇っていいものです。

この項の末尾に、「コを添ふること大に減じ」たのは、ここ十四、五年以来、男子で、女子は今もつかっている、とされています。「…コ」の使用を、その「鄭重さ」「親愛・謙遜」の意を男子は遠慮・敬遠したものであったかも知れません。

*注⑦ここでは、〔「名詞」の <第二節> 代名詞 (三)〕の、特に、「按ずるにんがは古語のいがのいがウガと転じ、其のウガの更に転じてんがとなれるものなるべし」の古語イガの用例について、ちょっと立ち寄ってみることにします。

用例は『古事記』 『日本書紀』にみられるとされるのですが、筆者には、これがどうしても読めません。そこで歴史にくわしい県歴史教育者協議会会長・田牧久穂氏(大仙市大曲田町住)にお願して、次のような読みと解説をいただくことができました

しかる大伴連等おおとものむらじらおや道臣命みちのおみのみこと久米直等くめのたえらおや大久米命おおくめのみことの二人、兄宇迦斯エウカシびて、詈りて云いけらく、「伊賀いが つく りつかまつれる大殿おおとのうちには、意禮おれず入りて、つかまつらんとするさまあかもうせせ」といいて、云々
(出典 『古事記』)  

(現代語意訳)そこで大伴連等の先祖の道臣命と、久米直等の先祖の大久米命の二人は、エウカシを呼びつけ、大声で叱咤して言うことには、「伊賀(多分、[お前]の意味と取れます)、天皇(神武)のために作った御殿の中に、まず意禮(相手を宣しんでいう二人称、おのれ・お前)が先に入って、お仕え奉ろうとする樣をはっきりさせろ」と言いながら云々。

* 地域の土豪である兄宇迦新が、東征中の神武天皇を吊天井式の御殿を造り、押し殺そうとしたときの物語の一節です。
* 連と直は、家柄の高下を表す記号で、「かばね」といいます。

同じ物語がが『日本書紀』では、次のようになっています。

天皇、即ち道臣命をつかわして、さかうるかたちあきらめたもう。時に道臣命、つまびらか賊害之心そこなわんというこころ有ることを知りて、大きに怒りてたけこらいていわ<、「いやしきやつが造れるに、おれみずかいりいよ」という。

* 爾のイは、相手を卑しめていう語。オレは、お前・汝の意。

蘇我大臣そがのおおおみ蝦夷エミシ山背大兄王等やましろのおおえのおおたちすべて、入鹿イルカに亡ぼされぬと聞きて、いかりていわく、「ああ入鹿極甚はなは愚痴おろかにして專行たくめ暴悪あしきわざ儞之いが身命いのちまたあやううからずや」と。

蘇我入鹿が、聖徳太子の子山背大見王一族を殺したときの、父蝦夷のせりふです。「大臣」は位です。

『古事記』は勅命によったもので、七一二年(和銅五年)献上、『日本書紀』は七二〇年(養老四年)とされるもので、ともに日本のもっとも古い歴史書といわれます。こんなに古い時代の歴史書に、なんと、 「伊賀(いが)」(お前の意)そのほかがみえていることがわかります。びっくりです。

細谷則理の学究心もさることながら、そこに平鹿地方の方言「ンガ」のもともとのかたち、「イガ」への追跡・着目にはおどろかされます。 学識のふかさがみせる大きな軌跡といえましょうか。

田牧氏の解説をじっくり読むと、古い時代に、猛り狂うように、「イガ」「イガ」と言い争った殿上人のナマの声がつたわってくるようにも感じられてなりません。

その「いが」が、「イガ⇒ウガ⇒ンガ」と音交代をとって、現代の方言「ンガ」となったとの考察は、さすがです。

「ンガ」は、標準語「お前」の方言であって、「汚い言い方」といったような方言蔑視観はいささかももっておられないのが細谷則理の学問的な立ち場であったことがわかります。

*注⑧代名詞の≪五≫、[誰デアル]⇒[だだ]への考察。

もともとは「誰(タレ)」。[タレ」から[ダ]に。それに「デアル」の(デァの約 <つづまり> によって)「ダ」となり、さらに(ルの略)で[ダ]。それで[ダダ]に。

「誰が」を「ダガ」といわないのだから、「ダ」は、タレのタの濁ったものではない…と究明。

*注⑨名詞 <第二節> 代名詞、・指定代名詞。

「指定代名詞」というのは、ふつう、「こそあど」といわれる文法的なかたちをさします。≪一≫での考察では「…さして普通と異なるはなくて」と、標準語と方言とのちがいのないことを〇印で表示しています。

ただ、遠称の「あこ」は方言で、標準語では「あそこ」とされるもの。「あそこ」の <そ> の脱け落ちが方言のかたちです。

表にみえている「地位」という用語は、耳なれない語なので辞書をひくと、「③存在する場所。位置」という意味で「場所・位置」のことと確認できましょう。現代では「場所」という用語でつかわれているようです。

≪二≫の「カコ」の考察もおもしろいです。「彼処」(カシコ)の略というのです。それに、この「カコ」は、「何処も彼処も」(ドコモカコモ)とつかわれるだけで、単独ではつかわれないという指摘。

「ドコ」は、「どこも」「どことなく」「どこやら」のようにつかわれるのですが、「カコ」の例は見当たりません。

方言として「ドコモカコモ」の一語のなかにだけ生きている語という考察は、さすがに的確といわざるをえません。

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