五、平鹿方言考(細谷則理著)を歩く(2) 細谷則理のこと (付「細谷則理小歴」)『浅舞資料 第十号』に、「細谷先生と私」(雷三謹誌)の一文があって、そのはじめに、「故細谷則理翁は浅舞口沼の学校通り角から三軒目の家に生まれ四人兄弟の長男である。幼年金助時代は、栄町の寺子屋山崎弥助先生に習い後柿崎宗信翁の元へも行った。大体、独学の歌人であり、又、国文学の大勉強家でもあった。」とあって、細谷則理の幼年時代がまず記されています。 これにつづいて、横手でのくらしの一端ものぞかれます。 「(則理先生が)横手中学(今の高等)に奉職する様になってから間もなく家族も後から引っ越した。私は明治三十八年四月から横手中学に入学したので、先生に保証人になって貰い先生の宅へしばらく下宿した。 其時先生の宅は、下根岸の今城南女学校寄宿舎(其当時まだ女学校はなかった)の向で裏は川である。私は毎朝旭川で顔を洗い冷水摩擦をさせられた。」 則理が横手中学に奉職した頃の下根岸の様子が、みえてくるようなひとこまです。 少し、まとまったかたちで『秋田県人物伝』に掲載されでいるのが次の一文です。
則理のおよその歩みがまとめられてあるのですが、どうしたものか『秋田方言』(県学務課刊)にかかわる方言研究の分野での足跡が正当に記載されていないのが気になります。大きな手落ちというほかありません。ましてや、『平鹿方言考』などは絶対にわすれてはならない論稿のひとつでしょうに。 さきの『浅舞資料 第十号』の(細谷則理小歴)をもとに年代的な歩みをたどってみたのが次の表です。太字で示したいくつかは、これまであまり取り上げられなかったこと、それに、「横手郷土史研究会」にかかわることなどを示したつもりです。
『平鹿方言考』の書かれた年代は、明治末年頃と推定されるのですが、かんじんの原本の確認もとれませんでした。横手図書館蔵の「細谷則理寄贈蔵書一覧」のなかにもみつけることはできませんでした。かなりの数の蔵書数には驚かされるばかりでした。はじめ、この蔵書の寄贈をもとに平鹿町図書館の開設のもとになったといわれているようです。 著書については、ここではまとめることも、触れることもできませんでしたし、また、歌人であったこと、漢詩のことなどについても資料に目が届きかね、同じように触れることはできませんでした。 それに、『横手郷土史 資料』などに寄稿されたものの年代毎の一覧も、まとめあげることを痛感したのでしたが、これも後日にバトンタッチということになってしまったことは残念でなりません。 この項のおしまいのおしまいになってしまったのですが、細谷則理の幼名金助については、『浅舞資料 第十号』(「雷三謹誌」)に記されていることは、さきにも述べましたが、則理という名については記述がありません。横手図書館の「保存資料名著者一覧」によれば、ふりがなで、≪細谷則理(ホソヤノリサト)≫がみられます。ふつう、ホソヤソクリといってしまうのですが、「則理」の訓読みは「ノリサト」のようです。これは成人命名によるものだろうと思われます。あるいは、筆名(ペン・ネーム)ということでしょうか。 細谷則理のあしあとを振り返ってみれば、ノリサトの名の示すように、ものごとの「理」を手本とし、“道理”の「理」に徹する「独学力行」の人であったことを、その『則理』の名からもうかがい知ることができるというものです。 |
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