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五、平鹿方言考(細谷則理著)を歩く

(2) 細谷則理のこと (付「細谷則理小歴」)

『浅舞資料 第十号』に、「細谷先生と私」(雷三謹誌)の一文があって、そのはじめに、「故細谷則理翁は浅舞口沼の学校通り角から三軒目の家に生まれ四人兄弟の長男である。幼年金助時代は、栄町の寺子屋山崎弥助先生に習い後柿崎宗信翁の元へも行った。大体、独学の歌人であり、又、国文学の大勉強家でもあった。」とあって、細谷則理の幼年時代がまず記されています。

これにつづいて、横手でのくらしの一端ものぞかれます。

(則理先生が)横手中学(今の高等)に奉職する様になってから間もなく家族も後から引っ越した。私は明治三十八年四月から横手中学に入学したので、先生に保証人になって貰い先生の宅へしばらく下宿した。 其時先生の宅は、下根岸の今城南女学校寄宿舎(其当時まだ女学校はなかった)の向で裏は川である。私は毎朝旭川で顔を洗い冷水摩擦をさせられた。

則理が横手中学に奉職した頃の下根岸の様子が、みえてくるようなひとこまです。

少し、まとまったかたちで『秋田県人物伝』に掲載されでいるのが次の一文です。

細谷則理 (慶応2年10月18日〜昭和17年6月19日)地方史研究家。小・中学校教師。明治十六年から浅舞と里見小で教壇に立ち独学力行、検定で中等教員の資格を得て同三十四年横手中学校(現横手高)の教諭。 昭和二年同校を退職、さらに嘱託として同五年まで務めた。ニックネームの“ソッケ細谷先生”は生従の答えに対し「それがえー」とからだをそらせたため。郷土史は教師時代から研究を続けていたが、退職後はそれに専念した。歌人であり、浅舞婦人会の顧問となって婦徳の向上にも尽くした。

著書に、『横手戊辰史談』『高等読本詩歌評伝』『郷土唱歌』『漢字弁誤』『横手郷土史』『神宮寺を中心とする郷土史』『本多上野介の研究』『雄勝郡史(未定稿) 』『後三年役研究』『新撰秋田県歴史唱歌』などがある。…

則理のおよその歩みがまとめられてあるのですが、どうしたものか『秋田方言』(県学務課刊)にかかわる方言研究の分野での足跡が正当に記載されていないのが気になります。大きな手落ちというほかありません。ましてや、『平鹿方言考』などは絶対にわすれてはならない論稿のひとつでしょうに。

さきの『浅舞資料 第十号』の(細谷則理小歴)をもとに年代的な歩みをたどってみたのが次の表です。太字で示したいくつかは、これまであまり取り上げられなかったこと、それに、「横手郷土史研究会」にかかわることなどを示したつもりです。


* 細谷則理小歴

・ 慶応2年浅舞町に生まれる。
・ 明治12年(13才〜)五年半、戸長柿崎宗信に師事。 (注①)
・ 明治16〜34年(17才〜35才)
浅舞・里見小学校奉職。
・ 明治32年(33才)国語科中等教員試験(文検)合格。
明治33年(34才)『新鮮秋田地理唱歌全』横手・大沢鮮進堂より出版(注②)
・ 明治34年(35才)県立横手中学校教諭任命。
明治44年(45才)『横手町郷土誌』に≪平鹿方言考≫抄録。(注③)
大正15年(60才)『横手郷土史編纂会』結成に参加、編纂委員。
昭和2年(61才)『横手郷土史 資料 第一号』に (戸村十大夫義国働の覚> 執筆。つづく毎号に執筆。
・ 昭和2年(61才)県立横手中学校漢文科教授嘱託。
昭和4年(63才)『秋田方言』語法部門編纂委員に(三年間)(注④)
・ 昭和5年(64才) 県立横手中学校嘱託解かれる。
昭和7年(66才)『横手郷土史』刊行、編集委員。
・ 昭和17年(77才)死去。

(この「小歴」は≪浅舞資料第十号≫をもとにしたもの)


注①明治初年代の小学校制度は、簡易科四年、高等科二年、または三、四年で、年度によって改正変動が大きかった。仮に、8才で入学、四年在学すると十二才。その十二才から戸長に師事、五年半。17才で教員に推された当時の事情がみえてきます。
注② 『秋田県地理唱歌』は小泉秀之助との共同作歌。ポケット判で正価金五銭、地元鍛治町大沢鮮進堂発売元。ほかに『秋田県歴史唱歌』の発売広告もみられる。
注③ 『横手町郷土誌』の作成年度は推定。その中の『平鹿方言考』は、それよりも早いものであることがわかります。明治末年の論稿ということになりましょう。
注④ 『秋田方言』(県学務課刊)は、昭和4年の刊行。細谷則理は語法部門の編纂委員に。三年間の編纂業務であったから、<昭和2年 横手中学校漢文教授嘱託> となった事情と重なります。『秋田方言』刊行の翌年、嘱託の職を辞している事情とも重なります。

『平鹿方言考』の書かれた年代は、明治末年頃と推定されるのですが、かんじんの原本の確認もとれませんでした。横手図書館蔵の「細谷則理寄贈蔵書一覧」のなかにもみつけることはできませんでした。かなりの数の蔵書数には驚かされるばかりでした。はじめ、この蔵書の寄贈をもとに平鹿町図書館の開設のもとになったといわれているようです。 著書については、ここではまとめることも、触れることもできませんでしたし、また、歌人であったこと、漢詩のことなどについても資料に目が届きかね、同じように触れることはできませんでした。

それに、『横手郷土史 資料』などに寄稿されたものの年代毎の一覧も、まとめあげることを痛感したのでしたが、これも後日にバトンタッチということになってしまったことは残念でなりません。

この項のおしまいのおしまいになってしまったのですが、細谷則理の幼名金助については、『浅舞資料 第十号』(「雷三謹誌」)に記されていることは、さきにも述べましたが、則理という名については記述がありません。横手図書館の「保存資料名著者一覧」によれば、ふりがなで、≪細谷則理(ホソヤノリサト)≫がみられます。ふつう、ホソヤソクリといってしまうのですが、「則理」の訓読みは「ノリサト」のようです。これは成人命名によるものだろうと思われます。あるいは、筆名(ペン・ネーム)ということでしょうか。

細谷則理のあしあとを振り返ってみれば、ノリサトの名の示すように、ものごとの「理」を手本とし、“道理”の「理」に徹する「独学力行」の人であったことを、その『則理』の名からもうかがい知ることができるというものです。


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