横手方言散歩サイトロゴ

六、≪参考≫

≪参考(2)≫ スギハ(過ぎ端)

「署さ、寒さも彼岸(ひがん)まで」といわれます。とくに雪国に住むものにとって、「春の彼岸」は、きっぱりと冬との決別を意味するほどの節目としてもとらえます。もちろん、春は「春分の日」、秋は「秋分の日」としてそれぞれ祝祭日になっています。

この〔彼岸〕にかかわって、 〔入り日〕とか、 〔中日(ちゅうにち)〕などのことばは辞書類にはのっていないことばのようです。だから、 〔彼岸〕の〔スギハ(過ぎ端)〕のことばもおなじで、どこを探してもないのですが、横手・山内などでは大事につかわれてきたことばです。 「それぞれの地方で、話すときにだけつかうことばがあります。このことばのことを方言といいます」(『にっぽんご6 語い』)にしたがえば、 〔すぎは〕は方言ということになるでしょうか。

手元にある『日本大歳時記』の〔彼岸〕の項の解説によると、

「春分と秋分とを中日として、その前後三日間ずつ七日間を言う。梵語の波羅(はら)の訳語。波羅とは、到彼岸の略で、生死流転に迷う此岸(しがん)に対して、煩悩の流れを超えた悟りの境地を彼岸と言う。…(略)…彼岸の入りの日を彼岸太郎・入り彼岸・さき彼岸などと言い、終りの日を終い(しまい)彼岸・彼岸ばらいなどと言う…(略)…」

とあって、「中日(ちゅうにち)」、「彼岸の入り」のことばをとりあげています。 〔彼岸〕は仏教語から出たことば。解説をまつまでもなく、〔彼岸〕には墓参りしたり、墓前に花やぼた餅を供えたりします。

ところで、〔入り日〕〔中日〕のことばは、辞書類にはみえないのですが、『歳時記』にはなんとか取りあげられているようです。それに、横手・山内では、〔彼岸〕の終わりの日を〔すぎは(過ぎ端)〕というのですが、このことばも辞書には説明されていないのです。『歳時記』でいう、〔終い彼岸〕と同じでしょうが、〔すぎは(過ぎ端)〕には横手・山内の人たちのもつ、〔彼岸〕への思いのふかさ、なみなみでないゆたかな生活感、宗教感のようなものを感じさせられてしまいます。このことばをだいじにしてきた、育てあげてきたことは、その証しといえましょう。

まず、〔すぎは(過ぎ端)〕の〔端〕から見てみます。

は[端]はし。へり。
「夕日のさして山の端いと近うなりたるに」(枕一)
(「角川・古語辞典」)  

は[端]① はし。はた。
  「山の端に月かたぶけば」(万)
② はした。はんぱ。「端数」
(「広辞苑」)  

「古語辞典」でも「広辞苑」でも、意味を「はし」として、用例はどちらも「山の端」をあげています。これらの「端」は、ものの「端」を意味していますが、次の用例の「端緒」(たんしょ・たんちょ)では、「事のはじまり。いとぐち。手がかり。」と説明され(「広辞苑」) 、これは、「ものごと」の「端(は)」を意味しています。ですから、「過ぎ端」 では、「過ぎる」という≪時のはじまり・いとぐち≫と理解できましょう。

つまり、こういうことなのです。[彼岸]の終わることを、 <終わる> とする終止形でとらえず、祖先に対する思慕のその心情を、[彼岸の中日]に際立たせたように、 <終わる日> を≪過ぎる≫ととらえてみせたのが、この〔過ぎ端〕ではないのでしょうか。[彼岸]を <終わる> ととらえるのでなしに、通過するもの、めぐりめぐって、また、帰ってくるものととらえてみせる信仰心の深さ、心のゆたかさをもとにしているといえましょう。

〔過ぎ端〕にこめた、横手・山内ならではの奥深い生活の息遺いが感じられてなりません。こうみてくると、〔過ぎ端〕は、その出身を仏教語、あるいは古語をもとにした方言といえるのではないでしょうか。

☆つけたし

〔過ぎ端〕ということばは、辞書類をはじめとしてどの資料にもとりあげられていません。話すときにだけつかわれてきたことばです。ですから、活字としては存在しません。〔スギハ〕という音をもとにして、意味を考えあわせて、文字化してみたものです。

この <つけたし> では、〔過ぎ端〕の〔端〕を同じようにもつ、≪立ち端≫(たちは)へ寄り道してみようと思います。

東北民謡で有名な「お立ち酒」があって、旋律のよさもさることながら、この唄がかもしだす別れがみせるドラマには、胸うたれます。この「お立ち酒」は全国向けのことばであって、もともとは「立ち端」で、古語なのです。〔過ぎ端〕と同じといえます。

立(起)ち端 (たちは)
席などを立つ機会。立ち去るしおどき。
「まことに ことのほかの大酒にて、立ち端を忘れて候」
(「角川/古語辞典」)  

「立つ機会。しおどき」といった意味のことばが、しだいに、「祝宴などから帰ろうとして立つときにすすめる酒。お立ち酒。」を意味することばになってしまったわけです。別離にこめたふかい思いと、そしてすすめる酒とがみごとにとけあった「お立ち酒」というわけです。このもともとのことば〔過ぎ端〕は、出身を古語とする方言といえましょう。

くだけた調子で、「立ち端ン(たちはン)いっぱい」などとつかわれることもあるようです。おとなり由利地方などでは、「オグレ三杯、タヂハ三杯、車待ダシェデモー一杯」…現代に生きている〔立ち端〕の好例のひとつでしょう。

〔過ぎ端〕も、また、〔立ち端〕もさりげないかたちで、奥深いくらしの思い、心をいまに伝えている方言といえます。


外部リンク

単語検索


ひらがな/カナ:
区別しない
区別する